退助の好物 |
退助の好物は ゆで卵と 鮎の塩焼き |
神社のお守りを厠にわざと捨てた |
少年の時現実主議者だったので神罰が当たるか試し何も起こらなかったことを証明した。 |
後藤象二郎とは竹馬の友 |
退助の生家は、現在は高野寺というお寺に、すく近所の後藤象二郎の生家は、現在は土佐教会「聖泉幼稚園」 |
あまりにも腕白で神田村に謫居 |
20才のとき喧嘩が原因で現在の神田に4年間の謫居生活を命じられた。(謫居の地除幕式動画) |
食べ合わせをして無害を証明 |
ウナギと梅干し、天ぷらと西瓜を食べたら死ぬると言う迷信に対し人を集めて食べ無害を証明 |
自分を切りに来た中岡慎太郎と
意気投合(諸説あり・伝承) |
武市瑞山の命令で自分を切りにきた中岡慎太郎を見透かし、暗殺を留まらせ意気投合し
共に倒幕に身を投じることになる。 |
山内容堂公と3日間剣術の練習をした |
山内容堂公と七日七夜の間休みなしの稽古を続けた(史談速記録より)板垣退助と英信流 (広谷喜十郎・高知市歴散歩より) |
新田の屋敷に相撲場があった。
広谷喜十郎先生の(高知市歴史散歩) |
山内容堂に頂いた新田町の屋敷に相撲場と約20人の相撲取りが居た。
板垣退助と相撲-高知市広報「あかるいまち」2007年8月号より- |
大相撲を国技とし国技館の命名を許可 |
国民の娯楽の大相撲を国技とし相撲館とかの名前を委員長であった退助が国技館と決定した。 |
三菱マークの取り決めの相談に乗った |
岩崎弥太郎の明治3年10月17日の日誌に板垣退助と相談して三菱の商標を取り決めたと述べている |
正妻は4人 子供は10人だが? |
正式な妻は4人子供は10人だが子供はあちこちに居り土佐町に板垣のおんちゃんと言うそっくりの人が居り母親は
中島町の板垣の屋敷にお手伝いとして働いていたとの土佐町の地元でも有名な情報 。 |
岐阜遭難事件の犯人に特赦嘆願書 |
板垣死すとも自由は死せずの岐阜遭難事件の犯人に対し特赦嘆願書を明治天皇に提出し犯人は特赦になり謝罪した。 |
ルイビトンの日本最古のトランク |
1882年頃ヨーロッパに外遊し後藤象二郎と買ったトランクは現存する日本最古のルイビトンのトランク |
ヨーロッパ外遊から帰高すると大歓迎 |
民衆の板垣の人気はすさまじく丸山台を囲み浦戸湾に船が2000隻ほど集まった。 |
高知新聞の生みの親 |
退助が結成した立志社の機関紙(土曜新聞)から独立して明治37年高知新聞が創刊された。 |
日光東照宮と板垣退助像 |
彼が戊辰戦争で日光を 戦火から救ったということで昭和四年に建てられ 戦争で供出・昭和42年再建。 |
2度もお札になった |
昭和23年の50銭札と昭和28年の百円札に髭で偽造しにくいとのことも言われた。 |
国会議事堂内の像 |
国会議事堂内中央吹き抜けの中央大広間に伊藤博文 大隈重信 板垣退助と3人の像があるが板垣退助のみ国会に
議席は無い ポケットに手を入れた姿は開院式に天皇が通る時に不敬ではないか?が作者は髪一筋変更しなかった。 |
西郷隆盛が 最高の軍人と褒めた |
西郷隆盛に有馬藤太が二十万の兵を授けて海外に派遣し、能く国威を発揚し得る者は誰ですか』と尋ねた所、
西郷隆盛は即座に『それは板垣じゃ』と答えられた」 |
坂本龍馬を尊敬するも一度も会わず |
容堂公と勝海舟が龍馬の脱藩を免除の相談に立ち会う。 退助あるは坂本先生のおかげである、の言葉は有名
龍馬は大政奉還が成功しなければ武力倒幕の板垣に会うとの手紙が残っている。 |
戊辰戦争のあと長州ほど恨まれてない |
戊辰戦争のあと会津藩の為尽力し退助は会津領民と自由民権運動に奔走 |
東京都盲人福祉協会設立指導 |
明治36年板垣退助の指導の下設立し現在も活動 東京都盲人福祉協会設立 |